表現としての写真とは

一口に写真といっても頭に浮かぶ内容は人それぞれだと思います。

報道写真、記録写真、表現としての写真、商業写真、芸術写真そして私的な写真などなど様々な種類の写真が存在します。

一般に「写真」と言った時に強いイメージは新聞や雑誌と言ったメディアの報道写真でしょうか。長らく写真はプロの仕事と言ったイメージが強かったようですが、ここのところSNSに代表されるネット上の個人の発信としての画像や動画の発信が飛躍的に増えたことで私的な写真が目に増える機会が随分と増えたように思えます。

写真をめぐるこのような状況の変化により「写真」に対する考え方は従来と変わってきてもなんら不思議がありません。どのように変わっていくのかわかりませんが、この混沌が続く中で色々と変化していくことだけは確かだと思います。「変化」は次を導き、それは最終的には楽しいものになるのではないかという予感がします。

例えば機材の進歩は、多くの人が写真を扱う今を作り出す一つの原動力となりました。フィルムの時代の最初の頃は物理的にカメラにフイルムを装着したり、きちんと写真が写るようにピントや露出を測りそれを正しくカメラにセットするのは全て人間の役割でした。それはかなりメンドウなものであり、全ての物理的な動作は写し手の技量にかかっていたため万人向けのものとは言えないものだったでしょう。実際に昔の職業カメラの重要な基準の1つに「間違いなくフィルムに画像を記録できること」という基準があったと聞いています。そのような基準がプロにあったということは裏返せば写真とは「メンドウくさくて習熟のいる代物」だったということでしょう。

しかし、ご存知の通りカメラが生まれてから今日まで進歩が途切れることはなく自動露出(AE)やオートフォーカス(AF)の進歩や電子化によりカメラの「メンドウな」部分が解消することにより、写真は誰にでも扱いやすいものになってきました。さらにデジタルの時代を迎えフィルムの物理的な限界を超えたことにより、より高度により扱いやすくなりました。さらにカメラというものの形を大きく変えたのはスマートフォンでしょうか。カメラを特別に意識することなく持ち運ぶことができていつでも記録できるようになったことは今では当たり前になっていますが、レンズがついた大きな暗箱と言った風情の創世記のカメラを考えてみると随分と変化したものだといえます。

このような状況の中、もともと記録から出発した写真ですが、個人的な思いや物事をに重点を置いた写真が増えてきたように思います。記録だけでなく個人の心情を反映した写真すなわち表現としての写真が発展していくことは1つの精神活動の広がりでありそれは楽しいことです。

このWebサイトでは表現としての写真について私の思ったことを不定期ですが発信していきたいと考えています。